京都の性風俗の歴史。太夫・花魁のお仕事や遊郭とは

花魁道中

日本各地に存在する風俗街の中でも、江戸時代から歴史があり有名な地として、東京の吉原があります。風俗未経験の方でも吉原はテレビやドラマ、小説、漫画などで見聞きしたという人も多いのではないでしょうか?この吉原に対して関西には、吉原と並んで評されることが多かった京都の島原があります。実は島原は吉原よりも歴史が古く、安土桃山時代から始まりました。現在の風俗業の原点とも言える遊郭は、こんなにも昔から存在していたのです。

今回は少し趣向を変えて、昔の風俗である遊郭や花魁・太夫などについてご紹介していきたいと思います。

目次

京都の花街・島原の成り立ち

京都島原の大門

島原は、室町時代足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりと言われており、いわゆる島原の前身。1589年の桃山時代には豊臣秀吉の許可を得て、二条万里小路に「二条柳町(にじょうやなぎまち)」を開設しました。そして江戸時代になると二条柳町は現在の下京区の六条通り周辺に移転され、「六条三筋町(ろくじょうみすじまち)」となりました。
その後1641年に、六条三筋町は再度移転が命じられ、現在の京都市下京区にある丹波口駅の周辺に設置されました。六条三筋町は1641年以降、「島原」と呼ばれるようになりました。

島原(しまばら)は京都市下京区に位置する花街の名称。「嶋原」とも書く。正式名は西新屋敷といい、6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。島原は1976年に京都花街組合連合会を脱会し、現在は輪違屋のみが正式なお茶屋の鑑札を有し、置屋兼お茶屋の営業を行っている。

※Wikipediaより引用・抜粋

このように、それまであった風俗街の移転が島原の始まりでした。
二度の転移の際、経営者や働いていた女性たちが対応に追われることとなり大騒ぎになったのです。島原という名は、この騒動が島原の乱の乱れた様子に似ていたために付いたという説や、周りが田原だったため島に例えて呼ばれたという説など所説あります。

この後、島原は移転が行われることはなく、長期にわたってその歴史を刻むこととなりました。

設立初期の島原

島原遊郭は周囲を塀や壁で囲まれた形となっており、出入口として大門(おおもん)と呼ばれる大きな門がありました。江戸の有名な遊郭であった吉原も島原と同じく、周囲を塀に囲まれ入り口に大門が設けられていました。当時の遊郭には共通する設計があったと考えられます。

遊廓(ゆうかく)は、公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のこと。遊郭とも。

※Wikipediaより引用・抜粋

島原は「政府公認の遊郭」として大きく発展することになりました。
他の地域ではこうした風俗街のことを「遊郭」と呼びますが、島原は「花街(かがい)」と呼びます。これは、島原が風俗店だけがある街ではなかったためです。

島原では歌舞伎や音曲(おんぎょく=音楽のこと)が盛んに行われました。また、和歌や俳句なども盛んで、男女問わず多くの人が島原の様子や風景を褒めた和歌や俳句を詠んでいました。遊郭の他にもこうしたお店も多く立ち並んでおり、一般の男女も自由に出入りできたのです。

吉原の廓の女性は、吉原の外に出るには事前に町奉行所に申請を行い、大門で身元の確認が行われたうえでしか外出できませんでした。そのため吉原の廓の女性はあまり外に出る機会はなかったのです。

しかし、島原は廓の女性であっても自由に出入りすることができました。手形という証明となるものは必要でしたが、吉原よりも外出のルールは厳しくなかったようです。

また、当時は明治維新の中心的存在となった西郷隆盛や、京都で警察活動を行っていた新撰組などさまざまな人が島原を訪れていました。

大規模な火災

江戸時代の後期1851年(嘉永4年)に島原で大規模な火事が発生しました。この火事により、島原にあった6つの町のうち揚屋町(あげやちょう)以外はほとんどが焼失。島原はこの火事によって大きな損害を受けてしまいました。その後復興は行われましたが、他の地域へ移った人々の多くは島原に戻ることはありませんでした。

明治時代に入ると「明治維新」という改革が行われました。このとき、島原に歌舞練場(かぶれんじょう)という歌舞伎や舞踏の練習場が設けられました。歌舞伎で島原が再度人気となることを目的としたものでしたが思惑通りとはいかず、客足は戻らないままでした。

その後、昭和時代に入ると営業は続けていたものの、島原に以前のような賑わいはなくなり1977年に閉鎖。残存していた多くの建物や門も取り壊しなどで姿を消し、現在は大門、輪違屋、角屋がその面影をとどめているのみとなっています。すでに揚屋としての営業は行っていませんが、角屋は建築物としては今も日本に唯一残る揚屋造の遺構です。

こうして島原の歴史は幕を閉じました。

現在の島原花街

現在の島原のエリア地図

かつて島原は京都の花街として大きく繁栄しましたが、現在は花街として営業はしておらず当時の建物を残すのみとなっています。特に大火災時に消失しなかった揚屋町には、過去の建物が残っているので当時の雰囲気を感じることができます。

京都駅からJT山陰本線で1駅の丹波口駅から徒歩約5~10分ほどに位置し、昔ながらの島原の街並みが広がっています。最初に目につくのは、島原の北西にある大銀杏(おおいちょう)です。現在も存在する島原住吉神社の北端には、かつて大銀杏がありました。しかし島原住吉神社は、明治維新後に廃社となってしまいます。

その後、1903年(明治36年)に神社は復興しますが島原住吉神社の境内は以前のものよりも小さいものとなりました。そのため大銀杏だけが取り残される形となり、現在は樹齢300年以上の大木として祀られており、大銀杏の隣には神社の跡が残されています。

少し道を入ると、かつての花街が広がっています。島原は遊郭以外にもさまざまな施設があったため、すべてが妓楼(ぎろう)ではありませんが、当時の面影を残した風景を見ることができます。現在はカフェや旅館など一般店舗として活用されている建物も多く、外観をだけでなく内観も楽しむことが可能です。

花魁ってどんな存在?

花魁

時代劇などでたびたび登場し、時には大きな役割も果たす重要な役どころとなる花魁。
花魁については何となくイメージがあるかもしれませんが、実際はどのような存在だったのか知る人はそれほど多くはありません。では花魁とは一体どんな存在だったのでしょうか?

花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。現代の高級娼婦、高級愛人などにあたる。

※Wikipediaより引用・抜粋

遊女の階級

そもそも遊女という呼称は古くからあり、元来は芸能に従事する女性一般を指したものでした。とりたてて売春専業者を意味するものではなかったのです。その後、時を経て遊郭などで男性に性的サービスを行う女性のことを指す言葉となりました。

遊女(ゆうじょ、あそびめ)は、遊廓や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称。「客を遊ばせる女」と言う意味が一般的である。

※Wikipediaより引用・抜粋

近世になると女郎(じょろう)、遊君(ゆうくん)、娼妓(しょうぎ)という呼称もあらわれました。大衆的な遊女には、湯屋で性的労働を行う湯女(ゆな)、旅籠で性的労働を行う飯盛女(めしもりおんな)があります。京都では街角で買春客を待つ辻君(つじぎみ)、大阪の惣嫁・総嫁(そうか)、江戸の夜鷹(よたか)なども。ただし、遊女や遊君と言った場合、こうした大衆的な娼婦よりも上位の女性を指します。

遊女の階級は太夫、格子(こうし)、端女郎(はしじょろう)の3つの位付がありました。格子は、格子の中で着飾っていたことから呼ばれた名称と言われています。テレビやドラマなどでよく見かけるのはこの格子の姿が多いのではないでしょうか。

その後、格子の下に散茶(さんちゃ)という階級ができました。散茶とは粉になった下等のお茶のことで振らずに出ることから、客を気に入らなければ拒否できた太夫や格子と違い、誰でも望む者を相手にしたことから呼ばれたとされています。

さらにその後、太夫・格子・散茶の下にうめ茶、五寸局(ごすんつぼね)、三寸局、なみ局、次(つぎ)の階級ができ8階級となりました。

花魁の起源

実は花魁という言葉が使われるようになったのは1751年~1764年の宝暦の頃とされています。元々は太夫(たゆう)が最高位の遊女の呼称で、宝暦の頃に吉原の太夫・格子がいなくなり、散茶が変わって花魁と呼ばれるようになりました。そのため、厳密には太夫と花魁はイコールではありません。

太夫の称号は江戸時代初期に誕生し、当時は女歌舞伎が盛んで芸達者な役者が「太夫」と呼ばれたことが始まりと言われています。やがて遊郭の遊女の階級制が確立し、美貌と教養を兼ね備えた最高位の遊女に与えられる称号となったのです。

その後、宝暦の頃に吉原の禿(かむろ)や新造など妹分が姉女郎のことを「おいらん」と呼んだことから転じて、上位の吉原遊女を指す言葉となりました。おいらんの語源として、妹分たちが「おいらの姉さん」と呼んだことからきているなど諸説あります。

吉原では花魁が主流となりましたが、京都島原や大阪には「太夫」の名が残り、別名「こったい」と呼ばれました。

花魁の独特な言葉遣い

格子の後ろ姿

花魁は独特の言葉遣いでも知られています。この言葉遣いのことを「廓言葉(くるわことば)」といいます。その中でも有名な言葉として「ありんす」などがあるため、廓言葉は「ありんすことば」などとも言われています。吉原の遊女ならではの雰囲気を醸し出すのに一役買ったであろう廓言葉は、一つの文化として確立されていったのです。

ではどうして廓言葉が使われるようになったのでしょうか。その理由は実に現実的な理由でした。
当時の遊女は各地方から集められていました。当時の日本は今のように標準語というものがないため、それぞれが出身の土地の言葉を使っていました。そのため、吉原であっても出身の土地の方言が口に出てしまう可能性もありました。

今でこそ、方言は独特のニュアンスや響きがあるので、方言を使うことは可愛いこととすらされていますが、当時としては何を言っているのか理解されないことや、吉原の雰囲気を求めてきた客が急に地方の方言を聞いてしまうことで興が覚めてしまうということも考えられたのです。

そこで、廓言葉を普及させるようにすることによって、どこから来た遊女も遊郭ならではのハイセンスでおしゃれな言葉遣いができるように訓練されたのです。

こうした廓言葉は、実は今の世の中でも使われています。
例えば、スルメのことをアタリメと呼ぶのは、「スル」という言葉が金品を盗み取る「スリ」を連想させるため縁起が悪いということで、「スル」ではなく「アタル」を使い、アタリメと呼んだ廓言葉がルーツとされています。

また、よくお笑いの世界で使われるパートナーを表す「相方」という言葉も実は始まりは廓言葉で、お客に対して花魁のことを「相敵」(あいかた)と呼んだのがルーツと思われます。
そして、そもそも「馴染み」という言葉自体、花魁と懇意になることを指す馴染みという言葉からのものなので、現代でも「お馴染みの」という表現を使うとき、それは廓言葉を使っているということにもなるのです。

このように言葉の中に根付いている花魁の文化について考えるとき、歴史的に見ても彼女たちの存在は決して小さくはなかったと感じることができます。

花魁に関連する用語

花魁道中(おいらんどうちゅう)

花魁が禿や振袖新造などを引き連れて揚屋や引手茶屋まで練り歩くこと。今日でも歌舞伎や各地の祭りの催し物として再現されることがあります。
三枚歯の重くて高い黒塗下駄で八文字に歩くもので、吉原は「外八文字」(踏み出す足が外側をまわる)に対し、京都島原と大阪新町は「太夫道中(たゆうどうちゅう)」と呼ばれ、「内八文字」(足が内側を回る)で歩きます。きちんと八文字で歩けるようになるには3年かかったとも言われています。

禿(かむろ)

花魁の身の回りの雑用をする10歳前後の少女のこと。彼女達の教育は姉貴分にあたる遊女が行いました。禿(はげ)と書くのは、毛が生えそろわない少女であることからの当て字です。

番頭新造(ばんとうしんぞう)

器量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が務め、マネージャー的な役割を担いました。基本的に花魁につきますが、密かに客を取ることもあったようです。「新造」とは武家や町人の妻を指す言葉でしたが、後に未婚の女性も指すようになりました。

振袖新造(ふりそでしんぞう)

15~16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になります。多忙な花魁の名代として客のもとに呼ばれても床入りはしません。しかし、稀に密かに客を取る者もいたようです。その代金は「つきだし」(花魁としてデビューし、水揚げを迎える日)の際の費用の足しとされました。振袖新造となる者は格の高い花魁となる将来が約束された者であると言われています。

留袖新造(とめそでしんぞう)

振袖新造とほぼ同年代ですが、禿から上級遊女になれない妓、10代で吉原に売られ禿の時代を経なかった妓がなるもの。振袖新造は客を取りませんが、留袖新造は客を取ります。しかし、まだ独り立ちできる身分ではないため、花魁について世話を受けます。

太鼓新造(たいこしんぞう)

遊女でありながら人気がないものの芸はたつので、主に宴会での芸の披露を担当しました。後の吉原芸者の前身のひとつ。

遣手(やりて)

遊女屋全体の遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介役。当主の妻(内儀)と誤解されがちですが、あくまでも従業員であり当主の妻ではありません。難しい役どころのため年季を勤め上げた遊女や、番頭新造の中から優秀な者が選ばれました。店にひとりとは限らず、数人いることも。

女衒(ぜげん)

遊女達を全国から集めて郭へ供給する調達役。表向きは年季奉公の前借金渡しの形ですが、実態は人身売買でした。中には、人さらいと通じている悪質な者もいたとか。

伊達兵庫(だてひょうご)

花魁の格式に相応した壮麗絢爛な髪型のこと。横兵庫の派生形で、文金高島田の髷を大きく左右に張り、そこに松や琴柱をあしらった簪を左右に計六本、珊瑚大玉の簪を二本、鼈甲の櫛を三枚挿したもの。

身請(みうけ)

花魁に限りませんが、お客が遊女の身代金や借金を支払って勤めを終えさせること。大見世の花魁では数千両にものぼったと言われています。

太夫・花魁のしきたりとお仕事

吉原遊郭

遊女遊びをする際にも、遊び方のルールを守る必要がありました。
ましてや太夫・花魁のクラスになると、そうしたルールを完全に理解していることが一つの礼儀ともなったのです。そこで定められているルールは決していい加減なものではなく、厳格に決められていたため、太夫・花魁の文化は数百年も存在し続けることができたと言えるでしょう。

遊郭にはいつしかさまざまな身分階級の客が集まるようになっていました。その中で細かく遊女の階級が分かれていることによって、それぞれの身の丈に合った遊び方ができるようになった反面、厳しいルールの下で運営をしないと治安の悪化を招く恐れもありました。

そのため、ルールを知らずに失礼なふるまいをする客に関しては、遊郭全体として締め出すなどの厳しい断固とした処置がとられることもあったのです。このルールは位の高い太夫や花魁ともなるとさらに厳しくなり、なじみになるためにはたくさんのご祝儀と礼儀が必要となったのです。太夫・花魁となじみになるためには、何度も通わなければならず、上客として認められていく必要がありました。

何度も通うとはいえ、一度にかかる費用はとても庶民では手の届かない額だったので、なじみになるのは大名などのごく限られた富裕層のみでした。通う回数としては最低でも3回と言われており、3回通って客としての財力や人柄を認められ上客となって初めて太夫や花魁を指名することができました。

また、一度太夫・花魁の一人を指名した場合、同じ太夫・花魁を指名し続けるのが粋な遊び方とされており、そのようにして太夫・花魁と客との信頼や、絆が深まっていったのです。

こうした地道な努力の末に「馴染み」として認められると、疑似夫婦ともいうべき厚遇が待っています。ここまで来て初めて打ち解けることが可能となるため、この誰しもうらやむ関係性のために莫大な金額を投資したのです。

とはいえ、遊郭は非常にルールに厳格なところで、馴染みになった後でもその厳格さは適用されました。そこまでしても太夫や花魁は決して媚びるようなことはせず、気に入らなければ振ることもできたので、客としては常に油断できない緊張感がありました。

このような徹底されたシステムによって、普通以上に太夫や花魁の品格を高め、そのハイブランドとしての価値を存続し続けることができたのでしょう。このルールは客にとっては礼儀を忘れずに遊ぶための必要なルールであり、遊郭にとってはルールがあってこそ自らの地位を守ることができる非常に重要なものだったのです。

ただし、上記の3回通うのようなしきたりは実在が疑問視されています。実在したとしても、全盛の太夫にそのような接客を行った者もいたという特異な例であると考えられています。宝暦以降の記録によると、高級遊女であった呼び出し昼三(花魁)も初会で床入れしています。少なくとも花魁の呼称が生じた宝暦以降では、上記のようなしきたりの一般化は考えられず、後世に誇張された作法として伝わったものと考えられます。

当時の太夫・花魁のお仕事

太夫や花魁ともなるとそう簡単には会えない存在で、会うためには揚屋(吉原では引手茶屋)を通して置屋から太夫を呼び出す必要がありました。太夫が置屋から客に招かれて揚屋に移動する際、その光景はあたかも大名の行列が練り歩くが如くであったため、これを太夫道中(吉原の場合は花魁道中)と言われました。

揚屋ではお客と飲食を楽しんだり、踊りを始めとする遊芸を主に接待をし、客の求めに応じて床入り=性交を伴う性的サービス(つまり本番行為)を行っていました。

現在の太夫さんとは

琴を弾く着物の女性

現在は島原遊郭は無くなり風俗営業も行っていませんが、芸事のプロとして太夫さんは残っています。(もちろん性的サービスは行いません
京都といえば舞妓さんというイメージが強いと思いますが、舞妓さんと太夫さんは別物ですのでご注意を。

舞妓さんは町衆文化ですが、太夫さんは宮中文化。
「遊女(あそびめ)」というのは「神様(=上様/宮様)と遊ぶ」という意味から来ています。太夫さんは天皇に謁見が許された最高位の・官位「正五位(しょうごい)」の地位をいただいており、公家や宮様に芸事を披露する、というお仕事です。

太夫というのは芸事に優れ教養のある者に許された位で、茶道、華道、書道、香道、歌道、文学、和歌、和楽器(琴、胡弓、笛など)や、投扇興などの古典的遊びに通じていることも必要とされます。

京都に来たときに祇園を歩けば舞妓さんに逢うことはできますが、なかなか太夫さんを見る機会はありません。花魁という言葉が広く知られ伝わっていることから、花魁という言葉の方が馴染みがあるという方もいるでしょう。また花魁も太夫と言われたりしますが、これは名前やファッションだけを吉原の花魁たちが流用したため。厳密には異なりますので、もし太夫さんを見ることができたときは「花魁」や「舞妓」ではなく、「太夫さん」「こったいさん(公家言葉「こっち」の意味)」と呼んでください。

現代に引き継がれる風俗

浴槽に入る女性

ここまで遊郭や遊女、太夫、花魁などについてご紹介していきました。政治や時代の移り変わりや売春防止法の成立などを経て、現代ではこうした性的サービス業は形を変えて受け継がれています。
中でも大阪の飛田新地(飛田遊郭)は、表向き料理旅館に転向しつつも自由恋愛の名目でかつてと変わらない営業(ちょんの間)を継続している地域もあります。
風営法に応じて届出を出している業種のみで言えば、一番近いのはソープランドではないでしょうか。
ソープランドでも本番行為が行われますが、これは客と仲居との個室内での交渉を「自由恋愛」の名目で行われているものとしています。

その他にも業態を変え、本番行為自体は禁止されているものの、ヘルスや性感エステ、オナクラ、などさまざまな風俗業が営業しています。今回スポットを当てている京都島原には風俗街はありませんが、吉原のようにかつての公娼街がソープランドや風俗店の多く集まる地域となり、公娼地域同然の状態が継続している地域も少なくありません。

ちょんの間って何?

飛田新地

風俗店には、風営法の定めに応じて公安委員会に届出を出している一般的な風俗店と、料亭や飲食店を装って運営されるいわゆる裏風俗が存在します。

ちょんの間とは、本番ができる店舗型の裏風俗店の代表格として有名です。かつての赤線・青線地帯で営業していたお店が多く、旅館や料亭という建前をとって今も営業しています。ちょんの間の語源は「ちょっとの間」という意味で、お客様は15分からという非常に短い時間でセックスを楽しむことができます。

近年は減少傾向にありますが、全国各地の限られたエリアにはまだちょんの間のお店が軒を連ねており、さながら遊郭のような雰囲気を残しています。
その中でも、もっとも有名なのが大阪にある飛田新地です。

ちょんの間がある場所

前述したとおり、ちょんの間とはかつての赤線・青線地帯に多く存在する本番系の裏風俗で、その多くは旅館や料亭という建前で営業しています。

赤線・青線地帯とは、いずれも1958年の売春防止法の施行前までに日本各地に見られた付属店の密集地のことを指します。赤線は性風俗店営業の許可を取って営業していた地域のことで、青線は性風俗店営業の許可を取らず保健所から飲食店の許可を受けただけで営業を続けていた地域のこと。

そして現在、ちょんの間は飛田、今里、松島(大阪府大阪市)、滝井(大阪府守口市)、かんなみ(兵庫県尼崎市)など、関西エリアに特に多く点在しており、俗に「新地」と呼ばれています。

かつては横浜の黄金町や「田んぼ」と呼ばれた東京・町田のちょんの間など、首都圏にもいくつか存在していました。しかし、2000年代に入り各地で街の浄化作戦が行われたため、現在では川崎に数軒が残る程度となってしまいました。

その中でも日本で一番有名で、かつ賑わっているちょんの間街といえば、やはり飛田新地と言えるでしょう。飛田新地はJR天王寺駅の南西に位置し、1916年に大阪市西成区山王3丁目一帯に遊郭が築かれました。

昭和初期には200軒を超える遊郭で栄え、戦災を免れたため戦後も赤線として残り、現在もなお約150店のお店が営業しています。

ちょんの間のシステム

座る女性

日本でもっとも有名な飛田新地を例に、ちょんの間のシステムについてご紹介します。

飛田新地には2階建ての昭和の料亭のような風情のある建物が並び、各店の玄関ではスポットライトを浴びながら女の子たちが座り、通りがかるお客様から選ばれるのを待っています。

このように、女の子が店先でお客様に姿を見せる行為を「張り見世」と呼びます。

女の子たちの横には「ヤリ手ババア」と呼ばれる中高年のおばちゃんがセットで立っており、軒先ではおばちゃんが威勢よく客引きをしています。「お兄ちゃん寄ってって~な~」「遊んでってや~」などとお客様に声をかけるのはヤリ手ババアの役目です。軒先にいるおばちゃんは、女の子のマネージャーのような役割を果たしているのです。
ちなみにこのヤリ手ババアの語源は、遣手からきているものと考えられます。

お店の引き戸は開け放されており、その中に女の子がライトに照らされて座っています。このとき座っている女の子が、お客様のお相手をすることになります。お客様がお店に上がるまでは、女の子は決して声を発することがありません。

飛田新地では1軒のお店に2~3人の女の子が出勤していますが、軒先に座っているのは1人だけです。10分ほどの間隔でローテーションして女の子が交代します。それくらいの時間が経って、同じお客様が再びお店の前を通っても違う女の子を品定めできるようになっているのです。

お客様は数十軒を行ったり来たりしながら、自分の好みの女の子を決めてお店に入ります。写真指名ではなく、リアルなルックスだけを見て決めるのです。

飛田新地だけで100~150人ほどの女の子が出勤しているそうですが、飛田新地に勤めている女の子はルックスのレベルが高いと評判です。中には芸能人レベルの容姿をした女の子もいるのだとか。

そんな飛田新地は、若くて容姿レベルの高い女の子が多く在籍しているお店が並ぶ通りを「青春通り」、熟女が在籍するお店が多い通りを「妖怪通り」と呼ばれるなど、通りによって趣が違うのが特徴です。

なお、同じ大阪のちょんの間でも滝井新地は1軒のお店に女の子が5~6人同時に張り見世を行っていたり、今里新地では実際の女の子を見て選べないようになっています。このように、ちょんの間は街ごとにそれぞれの文化を形成しているです。

最後に

吉原の格子を表から見た姿

いかがでしたか?
ここまで京都の島原をメインに、古き風俗の在り方などについてご紹介してきました。
いま現在も残るちょんの間など、昔の風俗業を引き継いでいる業種もありますが、風営法に応じて届出を出して営業している風俗業を見てみると、昔と今ではかなりの差異があることが分かります。

また、現代でも太夫や花魁は存在していますが、当然ながら性的サービスは行いません。特に太夫は、そもそもが名手や師範のレベルで芸事に長けた役者の呼称がはじまり。

現存する太夫は京都の北政所茶会(きたのまんどころちゃかい)などで見ることが可能ですが、決して現代の風俗嬢とは異なる存在ですのでお間違えの無いように。

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